すらすら読める方丈記

すらすら読める方丈記
かねてから「古典」をじっくりと読んでみたいと考えていた。それも誰もが知っているメジャーなものを。高校の古文の授業で触りだけは習って知っているつもりでいて殆どの人は実はまともに通して読んだことはない古典というもの。

先日「清貧の思想」という本を読んだが、その著者である中野孝次氏の美しく味わい深い文章に感銘。同氏が現代語訳と解説を付した「方丈記」や「徒然草」を著しているのを知り、早速購入。「すらすら読める方丈記」と題した本。原文には総ルビ入りで確かにすらすら読み下し出来る。そして中野孝次氏の軽やかでありながら深く含蓄のある解説文。方丈記自体が400字詰め原稿用紙なら20枚ほどの短い散文。解説も含め200ページほど文庫本ですので正味1日で読了。何度も読み返して味わいたい素晴らしき良書。

鴨長明の「方丈記」といえば誰でも知っているこの冒頭の名文句。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。」

私が敬愛する小説家開高健氏は、小説(を含む文学作品)に求めるのは、その中にたった一つでも「鮮烈なる一言半句」が有るか無きかであるということを至るところで述べていた。そういう意味では、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」という鮮烈で完璧な一句が、鴨長明の人生の凝縮として絞り出された瞬間に方丈記は既に完成していたと思うのです。数百年に渡り日本人が味わって来た方丈記は、この名文句をもって千年を超えても生き続けるのでしょう。

ところで、方丈記は冒頭の名文句の後には割と具体的な文章が続く。山中の草庵に遁世するに至った出来事と心境を述べ、そして文芸に心を遊ばせ自由を謳歌する貧しい草庵での暮らしを自慢げに散々語る。しかし、最終段に至ると何故か急に仏道に立ったストイックな視点から自己批判し、捨て台詞を残してふて腐れたように終わる不可思議さ。結局、この遁世は綺麗事を並べた積極的なものでなく、追い出されるように逃げ出した消極的なものだったことを認める。不器用な生き方と、俗に未練たっぷりの人間性も隠さず表現しているのが興味深い。

「その時、心さらに答ふる事なし。ただ、かたはらに舌根をやとひて、不請の阿弥陀仏、両三遍申して、やみぬ。」

方丈記の最後を締めるこのミステリアスな言葉。「俺は一体何をしているんだ?と自問自答するけど全く訳が分らん。別に信じてないし唱えたくもないけど、南無阿弥陀仏を嫌々二、三回唱えてこの話はもう終わりする!これが俺!何か文句ある!?」というのは私の意訳。この最終段まで読み通してこそ方丈記の趣きが格段に深まる。冒頭の美しく完璧な一句以上のインパクト。鴨長明という魅力的な人物像が生々しく浮かび上がる絶妙な言語表現。素晴らしい。


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